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Socialist Republic of Viet Nam ベトナム社会主義共和国の歴史

Socialist Republic of Viet Nam ベトナム社会主義共和国

文郎国(ヴァンラン国) (紀元前8~7世紀頃)

(伝説 70% / 実在 30%)
時期:紀元前8世紀〜紀元前258年(諸説あり)
地域:現在のベトナム北部(紅河デルタ地帯)
首都:フォンチャウ(現在のフート省周辺)
支配者:雄王(フン王、Hùng Vương)。代々「フン王」の称号が受け継がれ、18代続いたとされる。

東山(ドンソン)文化:高度な青銅器文化。象徴的な「東山銅鼓(どうこ)」が有名。
建国神話:龍の王(ラク・ロン・クアン)と仙女(アウ・コー)の間に生まれた「100個の卵」からベトナム人の祖先が誕生したとされる。
社会構造:農業(稲作)を中心とした部族連合体。

 文郎国は、紀元前3世紀に現在の中国南部から南下してきた蜀泮(トック・パン)によって滅ぼされ、次の国家である「甌雒国(アウラク国)」へと引き継がれました。

甌雒(アウラク) (紀元前257年~紀元前207年※)

「文郎(ヴァンラン)国」に続いてベトナム北部に誕生した、歴史上2番目の古代王国です。

時期:紀元前257年 〜 紀元前207年(※紀元前179年まで存続したとする説もあります)
建国者:蜀泮(トゥック・ファン)。即位後は安陽王(アンズオンヴオン)と名乗りました。
首都:古螺(コーロア)。現在のハノイ市ドンアイン県にあたります。
名前の由来:北方の山岳民である「甌越(アウヴェト)」と、平野部の「駱越(ラクヴェト=文郎国の民)」が融合して生まれたことから名付けられました。

歴史的・文化的特徴
1. ベトナム最古の巨大城郭「コーロア城」
2. 強力な軍事力(神の弩の伝説)
3. 建国者「蜀泮」の謎蜀泮は、現在の中国四川省にあった「古蜀(こしょく)」という国の王族の末裔という説があります。秦によって故郷を追われた王族が、はるばる南下してベトナム北部で新国家を建てたという、世界史的にも非常にロマンのある仮説です。

王国の終焉
 紀元前207年頃、秦の崩壊に乗じて中国南部(広州周辺)に自立した南越国の将軍・趙佗(ちょうだ)の策略によって滅ぼされました。ここからベトナムは、南越国への編入、そして続く漢王朝による直接支配という、1000年に及ぶ「中国支配の時代(北属期)」へと突き進んでいくことになります。

南越国 (紀元前207年~紀元前111年)

1. 甌雒国から南越国への交代:伝説の「謀略」
 南越国の建国者である趙佗(ちょうだ)は、甌雒国の高い軍事力(神の弩)に苦戦し、正面突破を諦めました。そこで彼は以下の策略を用いました。
・和平の提案と政略結婚:趙佗は甌雒国の安陽王に和睦を申し込み、自身の息子(仲始:チョンチュイ)と安陽王の娘(媚珠:ミーチャウ)を結婚させた。
・スパイ行為:婿としてコーロア城に入り込んだ仲始は、国の守りの要である「神の弩(防衛秘密)」を盗み出し、破壊した。
・不意打ちの侵攻:防衛力を無力化させた後、南越国の軍勢で一気に攻め滅ぼした。

2. 支配構造
 南越国は、現在の広州(番禺)を首都とし、中国南部からベトナム北部までを支配した征服王朝です。趙佗は漢民族(秦人)でしたが、現地の越人の文化や風習を尊重する「和輯百越(わしゅうひゃくえつ)」という融和政策をとったため、ベトナムの地にも深く定着しました。

3. 南越国の最期
 南越国は約93年間にわたり、漢王朝(前漢)と時に臣従し、時に皇帝を自称して対抗しながら独立を保ちました。しかし、紀元前111年、前漢の最盛期を築いた武帝(劉徹)の大軍勢によって攻め滅ぼされ、ここからベトナムは本格的な中国直轄の植民地時代(北属期)へと入ることになります。

北属期 (紀元前111年~938年)

漢、唐など中国王朝の支配下に置かれる時期
B.C.111 前漢第7代武帝の遠征で(南越国が)滅亡
南海郡等9郡を設置(南海・蒼梧・鬱林・合浦・交阯・九真・日南 / ※珠厓・儋耳は海南島)
→以後、唐代まで中国の各王朝に服属(約1000年間)
交阯郡 @ベトナム北部(中心地。後に徴姉妹の反乱など抵抗の舞台に)
日南郡 @ベトナム中部(166年ローマ使者が到来、のちに独立してチャンパーへ)

唐代:安南都護府 @ベトナム北部(現ハノイ周辺。「安南」の呼称の由来)

■北部(現在の中国南部・広東省や広西周辺)
■南部(現在のベトナム北部〜中部)
■海南島(現在の海南省)
漢の武帝に滅ぼされる前(紀元前)、海南島にもベトナム北部にも「百越(ひゃくえつ)」と呼ばれる同系統の先住民族が暮らしていました。
ベトナム:1000年間の支配(北属期)のあと、938年に中国王朝から完全に独立し、独自の国家を歩むことになります。

呉朝(939年~967年)

呉権(ゴー・クエン)は、約1000年に及ぶ中国の支配からベトナムを独立へと導き、初の独立王朝「呉朝」を建てたベトナムの国民的英雄です。中国の三国志に登場する「孫権の呉(222年〜280年)」とは、時代も場所(ベトナム)も全く異なる人物です。

・第1次白藤江の戦い(938年):中国の地方政権「南漢」(中国五代十国時代に広東省・広西チワン族自治区・ベトナム北部を支配した地方政権。)の水軍を、潮の満ち引きと川底に仕込んだ木杭を使った奇策で撃破しました。
・中国支配からの独立:紀元前から続いていた「北属期(中国によるベトナム支配)」に終止符を打ちました。
・呉朝の建国(939年):みずから王(前呉王)を称し、ハノイ近郊の古螺(コロア)を首都に定めました。

 ベトナムの呉朝が滅んだ直接の理由は、創始者である呉権(ゴー・クエン)の死後に激しい身内の王位継承争いが起こり、国内が12人の群雄(地方豪族)によってバラバラに引き裂かれたためです。

1. 呉権の早すぎる死と、お家騒動(944年〜)
 建国者である呉権は、独立を達成してからわずか5年後の944年に亡くなってしまいました。彼の死後、妻の兄(義理の兄)が王位を奪い、それに激怒した呉権の息子たち(呉昌岌・呉昌文)が巻き返しを図るなど、泥沼の身内争いが勃発し、王権の権威が急激に失墜しました。

2. 「十二使君の乱」による無政府状態(965年〜)
 965年、最後のまともな王(呉昌文)が反乱の鎮圧中に戦死します。これにより呉朝の中央政府は完全に崩壊しました。この結果、ベトナム各地の有力な豪族12人がそれぞれ「おれが王だ」と名乗りを上げ、全土が激しい内乱状態に突入しました。この時代を世界史では十二使君の乱(または十二使君時代)と呼びます。

3. 新たな英雄「丁部領」による平定(967年)
 バラバラになったベトナムを武力で再統一したのが、次の英雄である丁部領(ディン・ボー・リン)です。彼は12人の豪族たちを次々と撃破・服属させ、968年に「丁朝(ディン朝)」を建国しました。呉朝の生き残りも彼に屈服したため、ここで正式に呉朝は滅亡となりました。

丁朝(968年~980年)

 丁部領(ディン・ボー・リン)は、「十二使君の乱」による大内乱を鎮めてベトナムを再統一し、国内で初めて「皇帝」を名乗って真の独立国家を築いた英雄です。後世には「丁先皇(ディン・ティエン・ホアン)」とも尊称されています。前の時代に中国軍を追い払った呉権が「独立の開拓者」なら、丁部領は「国家のシステムを完成させた真の建国者」と言えます。

・全土の再統一(万勝王):呉朝が崩壊した後の大内乱期(十二使君の乱)に、各地の強力な豪族12人を次々と撃破・服属させました。負けなしの強さから「万勝王」と恐れられ、968年にベトナムを再び一つにまとめ上げました。

・初の「皇帝」を宣言:それまでの支配者(呉権など)は中国に配慮して「王」を称していましたが、丁部領は対等であることを示すためにベトナム史上初めて「皇帝」を名乗りました。国号を「大瞿越(ダイコベト)」と定め、独自の年号「太平」も使用しました。

・中国(宋)に独立を認めさせる:当時、中国を統一した巨大帝国「宋」に対して朝貢(外交交渉)を行い、975年に「交趾郡王」に封じられました。これにより、中国から「ベトナムは独立した国である」と正式に認めさせることに成功しました。

・天然の要塞「ホアルー」への遷都:現在のニンビン省にある古都ホアルーに首都を置きました。周囲を険しい岩山と川に囲まれた天然の要塞であり、中国からの再侵略を防ぐための極めて現実的な軍事拠点でした。

・衝撃的な最期
 これほどの偉業を成し遂げた丁部領ですが、最期はあっけないものでした。後継者選びをめぐる宮廷内のギスギスした空気の中、979年、宮殿で酒に酔って寝ているところを、廷臣(杜釈)によって長男とともに暗殺されてしまいました。彼の死後、丁朝はすぐに弱体化し、わずか12年で次の「前黎朝」へと交代することになります。

丁朝と李朝の間にあった前黎朝(980年〜1009年)

 丁部領が暗殺されたあと、わずか6歳の息子が即位し、丁朝はピンチに陥ります。この「ベトナムの混乱」を見た中国の巨大帝国「宋」が、「今なら乗っ取れる!」と大軍を送って侵略してきました。

 国家存亡の危機の中、ベトナムの軍隊と国民は「6歳の子どもでは戦えない。軍の総司令官である黎桓(レ・ホアン)を新しい皇帝にしよう!」と叫び、彼をトップに担ぎ上げました。こうして丁朝は滅び、黎桓が建てた「前黎朝」がスタートします。

前黎朝の約30年間は、ベトナムの独立を守るための極めて重要な期間でした。
・宋の侵略を完全撃破(第2次白藤江の戦い(981年)):初代皇帝の黎桓は圧倒的な軍事の天才でした。攻め込んできた宋の陸軍・水軍を白藤江などで見事に打ち破り、ベトナムの独立を守り抜きました。
・外交の成功:戦争に勝ったあと、黎桓は宋に対して「これ以上争わず、お互い仲良くしましょう」と低姿勢で朝貢(外交)を行い、中国側に「ベトナムは手出しできない独立国だ」と認めさせました。

なぜ李朝に交代したのか?
 前黎朝は、初代の黎桓が亡くなった後に一気に崩壊へと向かいます。彼の息子である第3代皇帝「黎龍鋌(レ・ロン・ディン)」は、歴史に名を残すほどの暴君でした。残酷な刑罰を好んで国民や家臣の恨みを買い、さらに素行が悪く若くして病死してしまいます。
 「黎一族にはもう国を任せられない」と、怒った宮廷の役人や僧侶たちが、国民から圧倒的に信頼されていた徳の高い武将、李公蘊(リー・コン・ウアン)を次の皇帝に推薦しました。
 こうして1009年、前黎朝が滅び、ベトナム最初の長期安定王朝となる「李朝(大越国)」が誕生したのです。

李朝(大越国) (1009年~1225年)

 李公蘊(リー・コン・ウアン)は、ベトナム史上初の長期安定王朝である「李朝」の初代皇帝(李太祖)です。3歳の時に「古法寺」というお寺の住職(李慶van)に引き取られて養子となり、そこで高度な教育を受けました。
・李朝の建国(1009年):前黎朝の暴君が亡くなった後、その人格とリーダーシップを認められ、宮廷の役人や仏教界のトップから推挙されて皇帝に即位しました。
・ハノイへの遷都(昇竜/タンロンの伝説、1010年):それまでの山に囲まれた軍事拠点「ホアルー」から、広大で経済に適した「大羅(現在のハノイ)」への遷都を断行しました。川から黄金の龍が天に昇るのを見たという吉兆から、新しい首都を「昇竜(タンロン)」と名付けました。これが現在の首都ハノイの始まりです。
・仏教の保護と国づくり:幼い頃からお寺で育てられたため、敬虔な仏教徒でした。儒教や仏教を取り入れた中央集権的な国家体制を整え、文字(漢字)の普及や寺院の建立に力を注ぎました。
・長期安定の土台を築く:彼の治世から始まった李朝は200年以上続き、ベトナムが中国の影から完全に脱却し、独自のアイデンティティと文化を確立する黄金時代の幕開けとなりました。

・現代のベトナムでのリスペクト
 ハノイ市民にとって、李公蘊は「ハノイという街を生んだ父」です。現在もハノイの中心地であるホアンキエム湖のすぐ近くには、巨大な「李太祖(リー・タイト)像」が立つ公園があり、観光名所であり市民の憩いの場となっています。

・Hanoi(ハノイ/当時の呼称:昇龍)
 ベトナムの歴史における古代・中世の重要王朝である李朝(りちょう)と黎朝(れいちょう)の中心舞台(首都)は、いずれもHanoi(ハノイ)です。当時は昇龍(タンロン / Thăng Long)と呼ばれていました。現在のハノイ中心部にある世界遺産「タンロン遺跡」は、この両王朝の皇城(王宮)の跡地です。

■それぞれの都市との関係は以下の通りです。
1. Hanoi(ハノイ/当時の呼称:昇龍)
李朝(1009〜1225年):開国直後の1010年、初代皇帝の李太祖(リー・タイトー)が、それまでの山岳地帯から広大な紅河デルタ地帯である「昇龍(現在のハノイ)」へ遷都しました。これがハノイの「千年王都」としての歴史の始まりです。

2. 他の都市との関係
Hue(フエ):李朝・黎朝の時代、フエ(当時はチャンパ王国の領土、のちに順化/フエと呼ばれる地域)はベトナム(大越国)にとっては「南の国境地帯(最前線)」であり、まだ首都ではありませんでした。
Saigon(サイゴン):この時代はまだクメール人(カンボジア)の領土、あるいは未開拓の地であり、李朝・黎朝の統治は及んでいませんでした。
Da Nang(ダナン):李朝・黎朝の時代は、南方の要塞や港としての役割が徐々に形成されつつある段階でした。

「北の正統(Hanoi)」という言葉は、まさにこの李朝や黎朝がハノイを首都として中華王朝(宋や明など)と渡り合い、ベトナム国家の「正統な基盤」を作った歴史からきています。

■国名が「大越」になった理由と、その劇的な滅亡のプロセス
1. 国名を「大越(ダイベト)」とした理由
 国名を「大越」に変更したのは、李朝の第3代皇帝である聖宗(1054年)の時代です。それまでの国名「大瞿越(ダイコベト)」から変更しました。理由は「中国(宋)と対等な『帝国』であるという強烈なプライドの表明」です。
・「越(ベト)」の歴史:中国の南部にいた「百越」と呼ばれる民族グループに由来します。ベトナム人にとって「越」は自分たちのルーツであり民族の誇りでした。
・「大」をつけた意味:当時、北の中国には「大宋(宋)」という巨大帝国がありました。ベトナムはこれに対抗し、「お前たちが大宋なら、こちらは大越だ。中国の臣下ではなく、独自の皇帝が治める対等な帝国である」という自立心を世界に示したのです。(※中国はベトナムを格下の地域として「安南」と呼び続けましたが、ベトナム国内ではプライドをかけて「大越」の国号を使い続けました)。

2. 李朝はなぜ滅亡したのか?
 200年以上続いた李朝の滅亡は、「自然災害と飢饉」「無能な皇帝」「外戚(妻の実家)の乗っ取り」という、王朝滅亡の王道パターンによるものでした。崩壊までの流れは以下の3ステップです。
① 国内の荒廃と反乱(12世紀末〜)
 李朝の後半、政治の腐敗に加えて大洪水や大飢饉がベトナムを襲いました。民衆が飢えに苦しむ中、朝廷は有効な手を打てず、各地で大規模な農民反乱が頻発。李朝の権威は完全に失墜しました。
② 実権を握った有力平民「陳氏」の台頭
 反乱によって首都ハノイを追われそうになった第7代皇帝(高宗)と、その息子の皇太子(後の恵宗)を武力で救ったのが、ホン川(紅河)の下流で漁業や貿易によって巨万の富と私兵を築いていた地方豪族の「陳(チャン)氏」でした。皇太子は陳氏の娘を妻に迎えたため、ここから李朝の朝廷は陳氏の一族に乗っ取られていくことになります。
③ ベトナム史上唯一の女帝と、美しすぎる政権交代(1224〜1225年)
 精神を病んでしまった第8代皇帝(恵宗)は、政治に嫌気がさし、わずか7歳の娘である李昭皇(りしょうこう)に皇位を譲って出家してしまいます。彼女はベトナム史上最初で最後の「女帝」となりました。
 朝廷を支配していた陳氏のトップ(陳守度)はこのチャンスを逃しませんでした。自分の8歳の甥である陳煚(チャン・カイン)を宮廷に送り込み、幼い女帝の遊び相手にさせます。2人が仲良くなると、すぐに結婚をさせました。そして1225年12月(太陰暦)、わずか8歳の女帝・李昭皇は「夫である陳煚に皇位を譲ります」と宣言させられます(禅譲)。これにより、李朝は血を流すクーデターではなく、「政略結婚による平和的な譲位」という形で正式に滅亡し、次の陳朝(チャンちょう)へとバトンが渡されました。
 政権を奪った陳氏は、のちに李朝の皇一族が復讐してくるのを恐れ、李氏の生き残りを徹底的に弾圧・処刑しました。

まとめ
李朝:ハノイに都を置き、国家の「基礎」を作った。
李朝も陳朝も、現在のベトナム北部(ハノイを中心とする紅河デルタ地帯)を本拠地としており、国号(国の正式な名前)を「大越(ダイベト / 大越国)」と名乗っていました。「大越国」という言葉自体が、「ハノイ=北の正統」という歴史的枠組みそのものを表していると言えます。

陳朝(大越国) (1225年~1400年)

■形式だけを「平和的」に整え(禅譲)、李氏の血筋を完全に消し去るための、凄まじい大粛清
 表向きの儀式は「平和的な政権交代(禅譲)」という形をとりましたが、その裏で行われたことは冷酷非道な粛清であり、本質的には最悪のクーデターと何も変わりません。当時の陳氏のトップであった陳守度(チャン・トゥ・ド)という人物は、きわめて冷徹なリアリストでした。彼は「後顧の憂いを断つ」ために、李氏の一族を徹底的に根絶やしにする計画を実行しました。

1. 前皇帝(恵宗)を首吊り自殺に追い込む
 皇位を幼い娘に譲り、お寺に出家して僧侶になっていた元皇帝の恵宗を宮殿の後園で首を吊って自害させた。

2. 生き埋めによる大量虐殺
 1232年、陳朝は李朝の先代皇帝たちの法要(お葬式)を口実に、全国から李氏の一族をハノイ近郊の村に集め、事前に仕掛けておいた罠(地下の陥没や建物の破壊)を作動させて集まった李氏の皇族全員を生き埋めにして殺害しました。

3. 歴史からの抹消(名字の強制改名)
 さらに陳朝は、国民が「李(リー)」という名字を持つこと自体を禁止しました。過去の李朝の偉人を懐かしんで反乱が起きるのを防ぐため、国内の「李」姓の人間はすべて、別の文字である「阮(グエン)」という姓に強制的に変えられました。

■陳朝(ちんちょう / 1225年〜1400年)は、ベトナムの歴史において最重要クラスの王朝です。李朝に続いてHanoi(ハノイ/当時の呼称:昇龍)を首都とし、「北の正統(ハノイ)」としてのアイデンティティを決定づけた王朝と言えます。

なぜそれほど重要なのか、3つの大きな理由があります。
1. 【最大の功績】最強のモンゴル帝国(元)を3度も撃退
 当時、世界最強だったモンゴル帝国(のちの元)の軍勢が3度にわたってベトナムに侵攻してきました。陳朝は、名将として今もベトナムで英雄視される陳興道(チャン・フン・ダオ)らの活躍により、3回ともすべて撃退しました。当時、ユーラシア大陸の大国が次々とモンゴルに滅ぼされる中、独立を守り抜いたこの快挙は、現在のベトナム人の強い愛国心と誇りの源流になっています。

※「元との戦争(3回)」と「白藤江の戦い」の関係
第1次侵攻(1257〜1258年):首都ハノイ周辺が主な戦場。ベトナムがゲリラ戦で勝利。
第2次侵攻(1285年):陸路と海路からの大軍を、山岳地帯や河川での伏兵作戦で撃退。
第3次侵攻(1287〜1288年):この最後の戦いで、撤退する元軍の水軍を待ち伏せしたのが「白藤江(1288年)」です。

※「白藤江の戦い」まとめ
第1次白藤江の戦い(938年):対 南漢(なんかん)
第2次白藤江の戦い(981年):対 北宋(ほくそう)
第3次白藤江の戦い(1288年):対 元(げん)モンゴル帝国(元)のフビライがベトナムに大軍を派遣

2. 独自の文化とベトナム文字(チュノム)の誕生
 それまで中国(漢)の影響一色だったベトナムで、独自の文化を育みました。漢字を応用してベトナム語を表記する「チュノム(喃字)」という独自の文字が広く使われ始めたのがこの陳朝時代です。中国から伝わった仏教をさらに発展させ、独自の「竹林禅派(チュックラム宗)」を確立しました。

3. 歴史のキーワード「南進(サイゴン・ダナンへの道)」の始まり
 「南進」の初期のステップを踏み出したのも陳朝です。1306年、陳朝の王女が南のチャンパ王国の国王に嫁いだ際、結納品として現在のHue(フエ)やDa Nang(ダナン)周辺の土地を譲り受けました。これによって、ベトナムの領土がさらに南へと拡大していくことになります。

まとめ
陳朝:最強の敵からハノイを守り抜き、国家の「誇りと文化」を確立した(南進も開始)。
陳興道(チャン・フン・ダオ):ベトナムで「国父」とまで呼ばれる最高峰の民族英雄です。彼は世界最強の「モンゴル軍(元)」を3度も撃退し、かつて呉権(ゴ・クエン)が南漢を破った「白藤江の鉄の杭」の戦術を完璧に再現して、元軍に対して決定的な勝利を収めました。

胡朝(1400~1407)

 胡朝(こちょう / 1400年〜1400年代初頭)は、わずか7年で滅びた「短命の王朝」です。そのため、李朝や陳朝、黎朝に比べると「輝かしい栄光の王朝」としては扱われません。しかし、歴史的には「ものすごく重要で、ある意味で大事件を起こした王朝」です。ベトナムの運命を大きく変えたターニングポイントとなりました。重要な理由は以下の3点です。

1. 首都をハノイから「タインホア」へ移した(西都城)胡朝の開祖である胡季犛(ホー・クイ・リー)は、陳朝を滅ぼして自らの王朝を立てた際、首都をハノイ(昇龍)から、少し南にある清化(タインホア)という地に移しました。
・ハノイを「東都」とし、新しい首都を「西都(タイドー)」と呼びました。
・この時に建てられた石造りの城郭「胡朝の城塞(タインホア省)」は、2011年に世界遺産に登録されており、考古学的に非常に重要です。

2. 急進的すぎる「天才的な改革」を行った胡季犛は、時代を先取りしすぎた改革者でした。
・ベトナム史上初の「紙幣(お札)」を発行した。
・商業を重視し、度量衡(重さや長さの単位)を統一した。
・医療制度を整え、お寺の土地を没収して国家の財政を立て直そうとした。このように、現在のビジネスや政治につながるような先進的な改革を次々と行いました。

3. 【最大の失敗】中国(明)の侵略を招き、ベトナムを滅亡寸前にした
 改革が急すぎて国内の武士や領民、仏教勢力から猛反発を受け、国民の支持を失ってしまいました。
そこを突かれ、隣国の中国(明朝)に攻め込まれて、わずか7年で国が滅亡しました。その結果、ベトナムは再び約20年間にわたり中国の過酷な支配下(明の属領)に置かれるという、暗黒時代を迎えることになります。この明の支配から国を救い出したのが、次にハノイで立ち上がる「黎朝」です。

まとめ
胡朝:先進的だったが、空回りして国を滅ぼしてしまった「悲劇の重要王朝」

胡朝が建てた世界遺産の「石造りの城塞」の構造や、その後の中国(明)による支配がベトナムに与えた影響など

黎朝 (1428年~1789年)

黎朝(前期:980〜1009年、後期:1428〜1789年):特に重要な「後期黎朝」の開祖・黎利(レ・ロイ)が明(中国)からの独立を果たした際、再び昇龍(ハノイ)を首都に定め、ここを拠点にベトナム最長(約360年間)の王朝を築きました。

儒学(朱子学)を奨励
明と朝貢
1471黎朝第5代黎聖宗(位1460~97)チャンパー(占城)を滅ぼす※
16c南北に分裂 <北部>鄭氏 <南部>阮氏
1773西山(せいざん,タイソン)党の乱勃発→
西山党の阮氏が反乱を起こす
1777阮氏一族は西山朝に滅ぼされる(阮福暎は辛くも国外へ逃亡)

まとめ
黎朝:中国(明)の支配からハノイを奪還し、最盛期を迎えた。

西山朝(1778年~1802年)

「ハノイの正統」「フエの王朝」「サイゴンの南進」という全ての要素を1つに繋ぎ、ひっくり返したのがこの西山朝(タイソン朝)です。

1. 【最大の功績】分裂していたベトナムを200年ぶりに統一した
実は、黎朝の後半、ベトナムは「ハノイを中心とする北の鄭(チン)氏」と「フエを中心とする南の阮(グエン)氏(のちの阮朝の先祖)」に約200年間も南北真っ二つに分裂していました。この泥沼の分裂時代を、中部のタイソン出身の3兄弟(西山3兄弟)が農民反乱を起こして爆破し、北の鄭氏も南の阮氏も両方滅ぼして、ベトナムを1つの国家に統一しました。

2. ハノイ(北の正統)に攻めてきた中国(清)の大軍を撃破
西山朝の最高傑作と言われるのが、次男の阮恵(グエン・フエ / 光中帝)です。分裂を終わらせた直後、ハノイに中国(清朝)の20万の大軍が攻め込んできました。光中帝は正月返上で軍を率いて北上し、ドンダーの戦い(ハノイ(昇龍)の戦い)(1789)で清軍を木っ端微塵に撃破しました。この勝利は、陳朝のモンゴル撃退に並ぶ「ベトナム三大対外勝利」の一つとして、現代でもハノイで毎年盛大にお祭りが開かれるほど英雄視されています。

3. なぜ24年で滅びたのか?(阮朝へのバトンタッチ)これほど強かった西山朝ですが、天才リーダーだった光中帝が40歳という若さで急死してしまいます。後継者争いでガタガタになった隙を突き、タイソン兄弟に一族を皆殺しにされ、サイゴン(南部)へと逃げ延びていた阮氏の生き残り(のちの嘉隆帝)が、フランス人の援助や南部の経済力を味方につけて大逆転劇を起こします。こうして西山朝は滅ぼされ、1802年に阮朝(フエ)が誕生しました。

都市の歴史で見る西山朝の位置づけ
Saigon(サイゴン):西山朝に追われた阮氏が、ここを拠点に反撃の力を蓄えた(経済・軍事拠点化の始まり)。
Hue(フエ):西山朝の拠点のひとつだったが、のちに阮朝の首都になる。
Hanoi(ハノイ):西山朝が清を倒して大越国の「正統」を証明したが、直後に阮朝に奪われる。
つまり、西山朝は、短命ですが、「バラバラだったベトナムのピースを無理やり1つに集め、次の阮朝へ手渡した立役者」です。

「名前を使った超高度な政治プロパガンダ(大衆誘導)
 西山朝(タイソン朝)を起こした3兄弟(阮岳・阮侶・阮恵)は、もともとの名字は「胡(ホー)」でした。しかし、当時人気があった①の「広南阮氏」のふりをして民衆の支持を集めるために、わざと「阮(グエン)」に名字を変えて反乱を起こした偽物のグエンさんです。

1. なぜ「胡(ホー)」のままだとダメだったのか?
 わずか7年で中国に国を売り渡してしまった悲劇の王朝「胡朝」を覚えているでしょうか?ベトナムの民衆にとって、「胡(ホー)」という名字は「国を滅ぼして暗黒時代を招いた最悪の戦犯」という最悪のイメージが染み付いていました。そのため、「胡のグエン・フエです!」と名乗って反乱を起こしても、誰も味方してくれない可能性が高かったのです。

2. なぜ「阮(グエン)」だと人が集まるのか?
 一方で、当時その地域(中部〜南部)を治めていた本物の王様(広南阮氏)は、重い税金を課していたため民衆から恨まれていました。しかし、民衆は「今の王様は嫌いだけど、昔の優しかった阮氏の先祖(初代の王様など)は良かったなぁ」という、都合の良いノスタルジー(思い出美化)を持っていました。
 そこへ西山3兄弟が「我々は、今の悪い王様を懲らしめ、昔の素晴らしい阮氏の精神を取り戻すために立ち上がった、正統なる阮(グエン)の一族である!」と名乗って現れたのです。

3. まんまと騙された民衆とパニックになる本家
 これが当時の「水戸黄門」の印籠のような効果を発揮しました。民衆:「うおー!本物の、良い方のグエン様が救いに来てくれたぞ!」と大熱狂し、各地で農民たちが武器を持って大合流。本家の阮氏(王様):「えっ、あいつら誰!?うちの親戚にそんな奴いないぞ!」と大パニック。この「偽グエン」率いる最強の農民軍の勢いに押され、本物の阮氏はサイゴンまで追い詰められて、一族がほぼ全滅することになります。

4.「1777年」と「1786年」「サイゴン」と「ハノイ」の運命がどう動いたか
第1ステップ:1777年、南の「阮氏」を滅ぼす(舞台:サイゴン周辺)「偽グエン」を名乗る西山軍は、まず自分たちのいた中部から、本家グエン氏(広南阮氏)の領土へ南下していきました。圧倒的な強さで本拠地のフエを奪い、本家グエン氏をどんどん南へと追い詰めます。そして1777年、ついに南部のサイゴン周辺で本家グエン氏の王族のほとんどを捕らえて処刑しました。

第2ステップ:1786年、北の「鄭氏」を滅ぼす(舞台:ハノイ)南半分を完全に手に入れた西山兄弟(特に天才の次男グエン・フエ)は、「よし、次は北だ!」と矛先をハノイに向けます。当時、ハノイ(当時は昇龍)を支配していた鄭(チン)氏は、長年の贅沢で軍隊がすっかり弱体化していました。1786年、西山軍がハノイに攻め込むと、鄭氏の軍は一瞬で崩壊。ハノイを200年間牛耳っていた鄭氏もここで滅亡となりました。
 さらに、鄭氏に操られていた名目上の「黎朝の皇帝」もこの混乱の中で行き場を失い、西山朝が実質的に北の統治権も握ることになります。

 わずか10年足らずの間に、1777年:南の拠点の象徴だった阮氏を滅ぼし、1786年:北の正統(ハノイ)の支配者だった鄭氏を滅ぼした。この記述は、西山朝が「200年間誰も成し遂げられなかった、ベトナムの南北分断の解消(天下統一)」を、圧倒的な武力で力技でやり遂げた瞬間を記録しているのです。
 この怒涛の快進撃の後、ハノイに中国(清)の大軍が攻め込んできて、あの有名な「ハノイ(昇龍)の大勝利(1789)」へと繋がっていきます。

西山朝の英雄「グエン・フエ(光中帝)」は現代でもお札(旧紙幣)や通りの名前に使われるほど人気です。現在のベトナムでも「グエン(Nguyen)」という名前の通り(道)が街中にたくさんありますが、それは大半が英雄グエン・フエ(光中帝)から取られています。

阮朝 (1802年~1945年)

阮氏(※広南阮氏)一族の阮福暎(グエン・フク・アイン)、フランス人の宣教師ピニョーの援助を受け、1788年にサイゴン奪回に成功                   
1802年ハノイを攻略して西山朝を滅ぼし、フランス義勇軍とタイ軍の援助で全土を統一
・国号を安南から越南に改め、年号を嘉隆とし、首都をHue(フエ)に定める 
嘉隆帝(阮福映、位1802~20)
・1804年清の皇帝から「越南国王」に封じられた(清の冊封)
・中央官制をはじめとする国内の諸制度に清朝の諸制度を採用
・西欧諸国に対して鎖国政策(フランス人を優遇)
・キリスト教には寛大→死後、反キリスト教の風潮が強まる

阮朝とフエ、そして他の都市には歴史的にとても重要なつながりがあります。
1. なぜHue(フエ)が首都になったのか?
阮朝の初代皇帝である嘉隆帝(ザロン帝)は、もともと中南部を拠点に勢力を伸ばし、北部のハノイ側を破ってベトナム史上初めて「南北に長い現在の国土」をほぼそのまま統一しました。
そのため、南北に長くなった国土のちょうど中心(重心)に位置するHue(フエ)に都を置くのが、国を治める上で最も都合が良かったのです。

2. フエに残る阮朝の遺産
フエには、阮朝の皇帝たちが暮らした巨大な王宮や、歴代皇帝の豪華な陵墓(お墓)が数多く残されています。これらは「フエの建造物群」として、1993年にベトナムで世界初の世界遺産(文化遺産)に登録されました。

3. この時の「Hanoi」と「Saigon」はどうなっていた?
阮朝の時代、他の都市の役割は以下のように変わりました。
・Hanoi(ハノイ):千年の歴史を持つ王都でしたが、首都の座をフエに奪われ、地方の主要都市(一時期は「北城」と呼ばれた総督府)へと格下げされました。この時に名称も「昇龍」から現在の「河内(ハノイ)」に変えられています。
・Saigon(サイゴン):阮朝の開拓によって、南部の広大な穀倉地帯を背景にした商業・経済の中心地として急速に発展していきました。これが最初の質問の「南進の結果生まれた経済都市」につながります。

全滅寸前まで追い込まれた「本物の阮氏」の生き残り

阮朝はベトナム最後の王朝として1802年から1945年まで存在しましたが、19世紀後半からフランスの影響を強く受けるようになりました。特に、阮朝はフランスとの条約(例えば1883年の癸未条約や1884年の甲申条約)によって保護国化され、外交や軍事などの重要な権限がフランスに委ねられる形となりました。
その結果、阮朝は名目上の王朝として存続しましたが、実質的にはフランスの植民地支配下に置かれました。フランスはベトナムを北部(トンキン)、中部(アンナン)、南部(コーチシナ)に分割し、南部は直接統治、中部と北部は阮朝を通じた間接統治という形を取りました。
このような状況は、ベトナムの民族主義運動や独立運動のきっかけとなり、最終的に1945年の独立宣言へと繋がりました。

まとめ
李朝・陳朝・黎朝 = Hanoi(ハノイ)が首都(北の正統)
阮(グエン)朝 = Hue(フエ)が首都(最後の王朝首都)
ベトナムの首都がハノイからフエに移ったことで、それぞれの都市の性格がガラリと変わったのがこの時代です。

フランス植民地時代(1887年~1945年)

1. 「3つの分割支配」と都市の対応フランスがベトナムを3つに分断した際、それぞれの地域の中心になったのが、まさにこれまでに登場した都市たちです。

・南部(コーチシナ)= 直接統治 ➔ 中心都市:Saigon(サイゴン)
フランスが最も早く完全な植民地(領土)とした場所です。だからこそ、早くから西洋化が進み、最初の質問の「経済都市」へと急成長しました。

・中部(アンナン)= 間接統治 ➔ 中心都市:Hue(フエ)
阮朝の皇帝がいた場所です。フランスは皇帝の権威を「看板」として利用するため、フエに王宮を残し、名目上の統治を行わせました。これが「最後の王朝首都」のリアルな内情です。

・北部(トンキン)= 間接統治(のちに実質直接統治) ➔ 中心都市:Hanoi(ハノイ)
ここにも阮朝の総督が置かれていましたが、フランスは1902年にインドシナ連邦全体の首都をここに移しました。ハノイが「植民地統合の拠点(首府)」となったのはこのためです。

2. 条約の舞台となった「Da Nang(ダナン)」
「癸未(きび)条約」や「甲申(こうしん)条約」は、別名「フエ条約(アルマン条約・パトノートル条約)」とも呼ばれます。このフランスによる侵略の、まさに「最初の引き金」が引かれた場所が Da Nang(ダナン) でした。1858年、フランス軍はダナン(当時のフランス名:トゥーラン)を最初に乗っ取り、ここを軍事拠点としてフエの王宮へプレッシャーをかけ続け、最終的にこれらの不平等条約を認めさせたのです。

3. 1945年、Hue(フエ)での「終わりの儀式」
「1945年の独立宣言(ベトナム八月革命)」の際、非常にドラマチックな歴史の幕引きがHue(フエ)で行われました。ハノイでホー・チ・ミンが独立を宣言する直前、フエの王宮で阮朝最後の皇帝であるバオダイ帝が、革命軍に対して「国璽(国のハンコ)」と「宝剣」を手渡し、正式に退位(王朝の滅亡)を宣言したのです。

このように、「フランスによる分断・間接統治の歴史」 を知ると、ハノイ・フエ・サイゴン・ダナンという4つの都市が、フランスによってそれぞれ全く違う役割(運命)を与えられていたことがより鮮明に見えてくるかと思います。

ベトナム帝国(1945年3月〜8月)

1940年(第二次世界大戦中)から、日本軍がこの地域に進出(仏印進駐)

 1945年3月:日本軍によるフランス打倒(明号作戦)日本軍はフランス軍を急襲して武装解除させ、フランスの植民地政府を完全に解体。

1945年3月〜8月:ベトナム帝国(日本の傀儡国家)フランスを追い出した日本は、阮朝の保大(バオダイ)帝をトップに立てて「ベトナム帝国」を独立させます。しかし、実質は日本の支配下。

保大(バオダイ)帝
 ベトナム最後の王朝である「阮(グエン)朝」の第13代(最後)の皇帝です。彼は幼少期からフランスのパリに留学させられ、西洋風の教育を受けます。テニスやゴルフ、車を愛する青年へと育ちました。
 第二次世界大戦末期の1945年3月、日本軍がフランスを追い出すと(明号作戦)、日本は保大帝をトップに立てて「ベトナム帝国」の独立を宣言させました。
 同年8月に日本が敗戦すると、ホー・チ・ミン率いる独立派(ベトミン)に迫られ、彼は「人民の奴隷となるよりは、独立国の市民となる方を選ぶ」という名言を残して、あっさりと皇帝の座を降りました(阮朝の滅亡)。

(軍事境界線:北緯17度線)

【北】Hanoi ➔ 北ベトナムの首都(社会主義の司令塔)
【中部】Hue ➔ 南ベトナムの最前線の古都(激戦地になりました)
【中部】Da Nang ➔ 南ベトナムにあるアメリカ軍の最大級の基地(海の要所)
【南】Saigon ➔ 南ベトナムの首都(アメリカ文化が流入した大経済都市)

ベトナム民主共和国(北ベトナム) (1945年~1976年)

北部:首都:Hanoi(ハノイ)
【北】の全体(ハノイなど民族の故郷)
【中部】の北半分(フォンニャ=ケバン国立公園などがある地域)

1945年8月〜9月:ベトナム八月革命と独立宣言8月に日本が敗戦すると、ホー・チ・ミン率いる「ベトミン(ベトナム独立同盟)」が一斉に立ち上がり、保大帝を退位させてベトナム帝国を倒し、9月2日に「ベトナム民主共和国」の独立を宣言。
1954年のジュネーヴ協定により北緯17度線でベトナムが分断されて以降は「北ベトナム」と通称され、1976年に南北統一を果たして現在の「ベトナム社会主義共和国」へと移行しました。

ベトナム共和国(南ベトナム)(1955年~1975年)

【中部】の南半分(Da Nang(ダナン)、ホイアン、ニャチャンなど)
首都:Saigon(サイゴン)
【南】の全体(Saigon(サイゴン)やメコンデルタ)

フランス撤退後の主導権争いと、アメリカの強力な後押し(介入)によって誕生

 フランスは、共産主義のホー・チ・ミンに対抗するため、人気のあった保大帝をもう一度引っ張り出します。1949年、南側に「ベトナム国」という国を作り、保大帝をその国家元首(元皇帝)に据えました。

1. ジュネーヴ協定による「暫定的な南北分断」(1954年)
 フランスがインドシナ戦争に敗北したことで結ばれた「ジュネーヴ協定」により、ベトナムは北緯17度線を境に暫定的に2つに分けられました。
北側:ホー・チ・ミン率いる「ベトナム民主共和国」(共産主義)
南側:フランスが立てた保大(バオダイ)帝の「ベトナム国」(反共・親仏)

2. アメリカの介入と「ゴ・ディン・ジエム」の登場(1954年〜1955年)
 「もし統一選挙をやったら、圧倒的人気のホー・チ・ミン(北)が勝ち、ベトナム全土が共産主義になってしまう」と、アメリカが猛烈に焦りました。
 そこでアメリカは、フランスの影響力が残る保大帝を無視し、アメリカ留学経験のある筋金入りの反共主義者ゴ・ディン・ジエムを南ベトナムの首相に就任させ、大量の資金と武器でバックアップし始めます。

3. 国民投票と「ベトナム共和国」の宣言(1955年)
 実権を握ったゴ・ディン・ジエムは、1955年10月に「保大帝を元首の座から引きずり下ろすための国民投票」を強行します。この投票は、不正や脅迫が横行する形だけの公選でしたが、ジエムは見事に勝利。保大帝を追放して自らが初代大統領となり、「ベトナム共和国」の樹立を宣言しました。そして、「ジュネーヴ協定で決まった南北統一選挙には応じない」と突っぱね、南側だけの独立国家を固定化させたのです。

国民の不満:ジエム政権は、大統領の家族が権力を独占する独裁政治を行いました。
宗教弾圧:ジエム自身が熱心なカトリック教徒だったため、南ベトナムの多数派だった仏教徒を激しく弾圧しました。

4. 南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)
 1960年に南ベトナムで、ゴ・ディン・ジエム政権の独裁政治や仏教徒弾圧、過酷な土地政策に怒った南ベトナムの住民たち(農民、仏教徒、知識人、地元の共産主義者など)が集まって結成されました。
 結成を企画し、指導部を送り込み、武器や資金を供給していたのは、ハノイにある北ベトナム(ベトナム民主共和国)の共産党政府でした。
組織の終焉:1973年のパリ和平協定によってアメリカ軍が撤退した後も戦闘を継続し、1975年4月には南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)を制圧しました。その後、1976年に南北ベトナムが統一されて「ベトナム社会主義共和国」が誕生したことに伴い、その役割を終えて発展的に解消されました。

ベトナム社会主義共和国 (1976年~現在)

1975年:ベトナム戦争終結 サイゴン陥落 南ベトナム政府が完全に無条件降伏 北ベトナムの完全勝利
1976年:南北統一(国名を「ベトナム社会主義共和国」に改称)
1979年:中越戦争(カンボジア問題を巡り、侵攻してきた中国軍を撃退)
1986年:第6回党大会においてドイモイ(刷新)政策が打ち出される
1991年:カンボジア和平パリ協定
                
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